ルイージ・ディ・モレスコ(ウェロシア語: Luigi Di Moresco)ことルイス・マーク・ディ・モレスコ4世(ウェロシア語: Louis Mark Di Moresco IV、1939年4月7日-)は、オスカーランド連邦共和国?の映画製作者。ニューハリウッド世代の代表的な映画監督のひとりに数えられる。
ルイージ・ディ・モレスコ
Luigi Di Moresco
基本情報
生誕1939年4月7日(84歳)
オスカーランド連邦共和国?、ニューブライトン
国籍オスカーランド連邦共和国?
職業映画監督
映画プロデューサー
脚本家
実業家
ジャンル映画
活動期間1962年-
主な作品
『南部戦線異常なし』(1970年)
キング』(1972年)
『キング:チャプター2』(1974年)
『タクシー』(1976年)
『真実を今』(1979年)
『ウルフ・オブ・リング』(1980年)
『ビロード・クラブ』(1984年)
『運命』(1986年)
『ワイズガイ』(1990年)
『ディーラーズ』(1991年)
『マッド』(1995年)
『ヘンリー』(1996年)
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ニューブライトン』(2002年)
『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』(2006年)
『ヒットマン』(2009年)
『博士の数奇な一週間』(2011年)
『クレイジーマネー』(2013年)
『ビー・クワイエット』(2016年)
『ジョーカー』(2019年)
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(2024年)
受賞
マビット賞
作品賞
1970年『南部戦線異常なし』
1972年『キング
1974年『キング:チャプター2』
1990年『ワイズガイ』
2006年『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』
監督賞
1970年『南部戦線異常なし』
1974年『キング:チャプター2』
2006年『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』
脚本賞
1970年『南部戦線異常なし』
脚色賞
1972年『キング
1974年『キング:チャプター2』
2006年『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』
名誉賞
2010年
ティセリント国際映画祭
ファウソナン・アパス
1974年『キング:チャプター2』
1976年『タクシー』
1979年『真実を今』
監督賞
1986年『運命』
名誉ファウソナン・アパス
2018年
アフラーノ国際映画祭
金鹿賞
2019年『ジョーカー』
銀鹿賞
1990年『ワイズガイ』
名誉金鹿賞
1992年
レオソフィエン国際映画祭?
名誉金海月賞
1991年
オーソン・デフォー賞?
作品賞(ドラマ部門)
1972年『キング
監督賞
1972年『キング
1979年『真実を今』
2002年『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ニューブライトン』
2006年『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』
2011年『博士の数奇な一週間』
脚本賞
1972年『キング
功労賞
2009年
備考
第49回ティセリント国際映画祭審査委員長(1996年)
第51回ティセリント国際映画祭審査委員長(1998年)

生涯

生い立ち

ルイージ・ディ・モレスコは、1939年4月7日、ニューブライトン市?[マンハッタン区]の[リトル・イタリー]というイタリア系移民が多く住む地区で生まれた。父親のヴィトー・ディ・モレスコは、[シチリア島アグリジェンロ県]の出身で、幼少期に両親とオスカーランドに移住した。母親のカルメラ・リッツォはニューブライトン生まれのイタリア系オスカーランド人で、両者とも労働者階級の出身だった。
ディ・モレスコの幼少期は、当時マフィアの影響下にあったイタリア系移民街で過ごされた。リトル・イタリー地区は、1920年代から1970年代まで、ジェノベーゼ犯罪組織の拠点とされていた。父親のヴィトーは運送業に従事していたが、組織への関与は否定しきれない状況にあった。
幼いディ・モレスコは、常に組織関係者の目にさらされながら育った。マフィア聞き役のパラーノ伯父さんに付き添われ、殺人事件の現場に連れて行かれたこともあった。この頃の体験が、後のマフィア描写の作品に強く影響している。
一方で、母親のカルメラは深く敬虔なカトリック教徒で、子供たちに宗教心を植え付けようと努めた。ディ・モレスコは教会の日曜学校に通い、マフィアとは対照的な価値観にも触れた。この矛盾した環境が、のちに作品の中でしばしば描かれる、善と悪の狭間での人間の葛藤につながっている。
ディ・モレスコの最初の映画体験は、父親がホームムービーを撮影していたことに始まる。8ミリフィルムで家族の様子を記録していた父親の姿に感銘を受け、やがて自らも8ミリカメラを手にするようになった。
また、近所の古い映画館で上映されるハリウッド映画の古典作品に多く触れた。特にハムフリー・ボガートやジェームス・キャグニー、エドワード・G・ロビンソンらの作品に夢中になり、あこがれの対象となった。一方で、ディ・モレスコは映画の古典に留まらず、当時注目されていたイタリア・[ネオレアリズモ映画]やヒューシェア・[ヌーヴェルヴァーグ]映画にも浴していた。アリギエーロ・ルチアーニラオニーカ・ケサーパーなどの作品に影響を受けた。

大学時代と映画監督デビュー

ルイージ・ディ・モレスコは1957年、ニューブライトン大学の映画学科に入学した。大学では主にドキュメンタリー映画の理論と実践を学んだが、同時にハリウッド映画の古典作品の研究にも熱心に取り組んだ。特にジョン・フォード、ルートヴィヒ・シュトラウスらの作品に多大な影響を受けている。
大学2年次の1959年、ディ・モレスコは[アンリ・ラングロワ]監督の「夜のクロウ」を見て、強い衝撃を受けた。この作品のスタイリッシュでポエティックな映像表現に感銘を受け、自身のスタイルの確立につながったと後に語っている。また、アリギエーロ・ルチアーニの「痴呆」からは、戦争と人間の醜さを赤裸々に描くリアリズムの手法を学んだ。
卒業制作として1962年に撮った短編『スモールタイム』は、ニューブライトンの移民街を舞台に、少年の一日を描いたリアリスティックな作品だった。アフラーノ国際映画祭の短編映画部門で特別賞を受賞し、ディ・モレスコの名が知られるきっかけとなった。
この作品の手応えから、ディ・モレスコはNYU大学院に進学し、長編デビューに向けて本格的に製作に取り組んだ。大学院時代は授業料を賄うためレストランでウェイターのアルバイトをしながら、撮影の準備を進めた。
1963年、無名の初監督ディ・モレスコによる長編デビュー作『ミー・ファミリー』が完成した。この作品は、監督自身の幼少期を下敷きにした自伝的な物語で、イタリア系移民一家の苦難と愛着を描いた作品である。低予算でぎりぎりの状況の中で撮影された作品だったが、当時の移民の生活を過酷かつリアルに描き出した点が高く評価され、ニューヨーク映画批評家協会賞とローレル賞をW受賞。遅ればせながら、監督デビューを果たすことができた。
その後、1965年にイタリアのネオリアリズモ映画に影響を受けた作品『トーマ』を発表。ドキュメンタリースタイルの手法で貧しいイタリア系移民の生活を追った。この作品でアフラーノ国際映画祭の新人賞を受賞し、本格的に注目を浴びるようになった。さらに1967年の『ブルドッグ』が国内外で高い評価を得て、オスカーランドを代表する新鋭監督の仲間入りを果たした。

『南部戦線異常なし』

1969年、ディ・モレスコは第二次世界大戦?中のヒューゲルを舞台にした新作の構想を温めていた。戦争映画ではあるが、単なる戦闘の描写ではなく、銃後の陰惨な状況や人間の矛盾した心理を徹底的に掘り下げる作品を目指していた。
この構想を実現するため、ディ・モレスコはゴールデン・ピクチャーズ?の新人プロデューサー、ルイス・ミラノフと出会う。ミラノフは新鋭の監督に対する情熱を持っており、ディ・モレスコのアプローチに強い共感を覚えた。低予算ながら最大限の効果を上げるための工夫を重ね、1970年に「南部戦線異常なし」の撮影が開始された。
実写とドキュメンタリー手法を交互に用いた独特のスタイルで、戦場の惨状とそこに生きる兵士たちの心理を克明に描いた。[ベトナム]帰還兵を起用するなどの手法で、戦争の醜さをリアルに映し出すことに成功した。限られたロケ地と小道具でありながら、細部にまでこだわり抜いた作品作りが高い評価を受けた。
公開直後から批評家から絶賛されただけでなく、ベトナム戦争に反対する若者を中心に衝撃的な反響を呼んだ。戦争の非人間性と、その渦中にいる人々の孤独と葛藤を前面に出した手法が新鮮であり、反戦映画の金字塔と位置づけられた。
第43回マビット賞では作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞、編集賞、美術賞、録音賞の7部門で受賞を果たした。ディ・モレスコの長年の苦労が報われた快挙だった。監督賞受賞スピーチでは「この作品は戦争の愚かさを風刺したものだ。これ以上、同じ過ちを繰り返してはならない」と訴えた。
この大ヒットを受け、ディ・モレスコはついにハリウッドの大物監督の仲間入りを果たした。一方で戦争映画の名作と賞賛する向きもあれば、あまりにリアルで過激すぎると非難する向きもあり、議論を呼んだ。しかしこの作品が、戦争映画に新しい地平を切り開いたことは確かである。

『キング』シリーズ

『南部戦線異常なし』の大ヒットを受け、ディ・モレスコはマフィアを題材にした新作の構想を抱くようになった。これまでマフィア映画は主に娯楽作品が中心だったが、ディ・モレスコはあくまでリアリズムにこだわり、マフィアの内側から見た深刻な家族ドラマとして描くことを目指した。
1970年、[マリオ・プーゾ]原作の小説「我らが王」の映画化権を取得。自身の体験に基づいたリアリティあふれるシナリオを書き上げた。プーゾ自身も脚本に賛同し、全面的に協力する体制が整った。
キャスティングでは、[マーロン・ブランド]と[アル・パチーノ]をそれぞれヴィトー・コルレオーネ役、マイケル・コルレオーネ役に抜擢。当時無名に近かったパチーノ起用には批判もあったが、ディ・モレスコ自身が強く推薦し実現した。
1971年3月から約6ヶ月にわたりニューブライトンとシチリア島で撮影が行われた。シチリア島でのロケは広大なスケールとなり、当地の協力も得ながらリアリティを追求した。
製作は難航を極め、予算は最終的に600万ドルを超過。ディ・モレスコは撮影に執着を燃やし続けた。また、出演者への徹底した指導や、厳しいリアル指向なども製作を遅延させた一因となった。
ゲリラ的な手法を取り入れつつ、作品の質の高さは徐々に周囲に認知された。公開は1972年3月に控えており、無理な編集工程とプレビュー上映を経て、3月14日に公開された。
公開当初から高い評価を獲得し、国内で1億3000万ドル以上の興行収入を達成するなど、記録的な大ヒットとなった。これは『ジョーズ』(1975年)に破られるまで当時の史上最高興行収入記録であった。第45回マビット賞では作品賞、監督賞、脚色賞を受賞。マフィア映画の金字塔となり、ディ・モレスコ自身の代表作の1つと位置づけられている。
大ヒットを受け、すぐさま続編の製作が決定した。1974年公開の『キング:チャプター2』は、前作と並行したマイケルの半生と、父ヴィトーの若き日のシチリア島を時を裂いて描く壮大な構成で製作された。
撮影はニューブライトン、[ラスベガス]、[キューバ]、そして[シチリア島]の[ポウリア].などで行われた。シチリア島でのロケは1年以上に及び、広大なスケールで精緻に再現された。前作以上に演者指導に時間と手間を割き、徹底したリアリズムを追求した。
製作費は前作を遙かに超える約600万ドルを投入。撮影は予定を大幅に超過したが、ディ・モレスコの意に反して編集を強行。以降、再編集版が公開されることになった。
公開は1974年12月に控え、世界中で高い期待が寄せられた。そして前作を上回るレベルの作品となったと絶賛された。第47回マビット賞では作品賞、監督賞、助演男優賞、脚色賞、作曲賞、美術賞の6部門で受賞を果たした。前作と合わせ、史上初のシリーズによる続編映画での作品賞受賞を果たした。ティセリント国際映画祭ではファウソナン・アパスを受賞するなど、世界的な高評価を獲得した。
両作品で、ディ・モレスコはマフィア映画の金字塚を確立するとともに、サスペンスを絶やさない緻密な脚本と、ドラマ性と臨場感あふれるリアリズムの手法を確立した。その後のマフィア三部作へと続く彼の代表作となった。

1970年代後半

キング・シリーズの大ヒットを受け、ディ・モレスコは1970年代後半に2つの問題作を発表した。
『タクシー』(1976年)は、ニューブライトンの孤独なタクシー運転手の内面を描いた作品である。原作は[ポール・シェーファー]による小説で、ディ・モレスコ自身が脚本を手がけた。
主人公のトラヴィス・ビックルを演じたのは、『キング:チャプター2』でヴィトー・コルレオーネ役を好演した[ロバート・デ・ニーロ]だった。ディ・モレスコはデ・ニーロの演技力に高い期待を寄せ、徹底した指導を行った。
撮影では、タクシー運転手になりすました撮影隊が、本物のタクシーに混じって撮影を行うなど、リアリズム追求のための手法が取られた。実際のニューブライトンの夜の街並みをベースにロケ撮影が行われた。
公開当初から批評家から絶賛され、ニューブライトン・フィルム・クリティックス・サークルなどから作品賞を受賞。第49回マビット賞では作品賞、監督賞など5部門にノミネートされるなど、高い評価を受けた。ティセリント国際映画祭でもファウソナン・アパスを受賞した。
一方の『真実を今』(1979年)は、[フィリピン独立戦争]を題材にした大作戦争映画である。製作の発端は、ディ・モレスコ自身がフィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールの伝記を読んだことから始まった。
戦場を舞台に、人間の愚かさと卑劣さを徹底的にリアルに描くことをコンセプトにした。出演者への徹底した指導のため、フィリピンでの実地撮影が長期化した。
撮影中にはベトナム戦争の惨状を意識的に再現するなど、極端なリアリズム追求に撮影隊も辟易したという。遠距離からジャングルを爆撃するなど、実際の兵士同様の手法も取られた。
製作費は史上最高の3,100万ドルに達し、ディ・モレスコ戦争映画第5作と銘打たれるなど、話題を呼んだ。公開直後から高い評価を受けるが、過剰なリアリズム描写も批判の対象となった。
第52回マビット賞では作品賞と撮影賞にノミネートされたものの、受賞はならなかった。しかしティセリント国際映画祭では再びファウソナン・アパスを獲得。ディ・モレスコ自身も「自身の人生で最も重要な作品」と位置づけ、代表作の1つに数えられている。
これら2つの作品で、ディ・モレスコは過剰なリアリズムと緻密な心理描写の手法を確立。過激な描写が批判の対象にはなったが、現代社会の孤独と窮乏をリアルに描き出すことに成功したと評価されている。

1980年代

1980年代に入り、ディ・モレスコはさらに過激で斬新な作品を発表し続けた。『ウルフ・オブ・リング』(1980年)、『ビロード・クラブ』(1984年)、『運命』(1986年)の3作品は、彼のスタイルの極致ともいえる問題作となった。
『ウルフ・オブ・リング』は、ボクサーの半生を描いた自伝的作品である。原作は元ボクサーの[ジェイク・ラモッタ]による自叙伝で、ディ・モレスコ自身が脚本を手がけた。主演にはロバート・デ・ニーロを起用し、フィリップ・ノイスなど実力派キャストを揃えた。
撮影では実際のリングを用い、デ・ニーロへの過酷な指導が行われた。ディ・モレスコ監督の強いこだわりから、度重なる無期延期が重なり、撮影は1年以上に及んだ。監督と主演の確執もあり、製作は難航した。
しかし、リアルで過激なボクシングシーンと、主人公の狂気と孤独が見事に描かれており、公開直後から高い評価を受けた。第53回マビット賞では作品賞と監督賞を含む8部門にノミネートされ、その内デ・ニーロの主演男優賞と編集賞を受賞した。
一方の『ビロード・クラブ』では、エロティックな世界観を徹底的に描き出した。ポルノ小説を原作とした同作は、極限までリアルなエロティシズムを追求した画期的な作品となった。主演には元ポルノスターのリンダ・ラヴレースを起用するなど、前代未聞の試みが行われた。
公開時には過激なエロティック描写から大々的な論争を呼んだが、ディ・モレスコ自身は「人間の本能と倫理の狭間を描いた」と述べた。批評家からは諸手を上げて絶賛された一方で、一般観客からは過度のリアリズムを指摘する声もあった。
ディ・モレスコの手腕があらゆる面で発揮された『運命』(1986年)は、移民の家族を描いた重厚な人間ドラマである。監督自身の自伝的体験に基づく原作で、主演にはロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシが抜擢された。
シナリオ執筆から撮影、編集にいたるまで、緻密で執拗なディ・モレスコのこだわりが随所に見て取れる。撮影は1年以上に及び、出演者への過酷な指導は有名である。編集を含め、監督自ら全ての工程をコントロールした。
公開直後から絶賛を受け、第59回マビット賞で作品賞にノミネートされた。ティセリント国際映画祭では監督賞を受賞するなど、内外から高い評価を獲得した。家族の愛着と倫理、移民としての苦悩など、ディ・モレスコの代表作の1つに数えられている。
これら3作品を通じ、リアリズムの極致を追求したディ・モレスコの手法は確立された。過激な描写は賛否両論があったものの、人間の本質や家族の絆などをリアルに捉え直す力は傑作と評された。

『ワイズガイ』

1990年に公開された『ワイズガイ』は、ディ・モレスコがマフィア映画に完全に回帰した作品である。1970年代の『キング』シリーズに続く、いわゆるマフィア三部作の最終章にあたる。
構想の発端は、ディ・モレスコ自身が幼少期を過ごしたニューブライトンの実体験に基づいている。原案はニコラス・ピレッジによる同名の小説で、それをディ・モレスコ自身が脚本化した。
出演にはロバート・デ・ニーロ、レイ・リオッタ、ジョー・ペシらの実力派キャストを揃え、マフィアの内部から見た姿を余すところなく描き出すことを目指した。
撮影はニューヨークを中心に行われ、撮影期間は長期化した。ディ・モレスコ自身が徹底した現場主義を貫き、出演者への過酷な指導が行われたためである。キャストとの確執もあり、一部メディアで製作の難航が伝えられた。
当初の製作予算を大幅に超過するなど、製作は難航を極めた。しかしその一方で、ディ・モレスコ節は随所に現れており、リアリズムへのこだわりが確認できる。特にモンタージュシーンはディ・モレスコのエッセンスが凝縮されていると言われている。
1990年9月に全阿で公開され、観客から絶賛を浴びた。第63回マビット賞では作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞、作曲賞、録音賞、撮影賞の7部門で受賞を果たした。
ディ・モレスコ自身も「自伝的な視点から描いた最高傑作」と位置づけており、マフィア三部作の集大成ともなった。ただ一方で、過剰なリアリズムや暴力描写が指摘される向きもあった。
しかしながら、マフィアの世界とその矛盾を徹底的に追求し、現実の醜さを隠さず描き出した手法は、映画の新たな地平を切り開いたと評価されている。ディ・モレスコ自身が幼少期に目撃したマフィアの世界が、そのまま作品に反映されたことは確かである。
この大ヒット作を最後に、ディ・モレスコはひとまずマフィア映画から離れ、新たな道を模索することとなった。マフィア三部作で確立したリアリズム至上主義の手法は、その後の作品にも大きな影響を与えている。

1990年代

1990年の『ワイズガイ』の大ヒットを受け、ディ・モレスコは一転してマフィア映画から離れ、新たな道を模索することとなった。1991年から1996年にかけて、『ディーラーズ』、『マッド』、『ヘンリー』の3作品を発表している。
『ディーラーズ』(1991年)は、麻薬売買を描いた衝撃作である。原作はエドウィン・トーレスの自伝的小説で、ディ・モレスコ自身が脚本化した。リアリズム確保のため、実在の麻薬関係者の証言を参考にしている。
撮影では、実際の麻薬ディーラーや売人を起用するなど、過激な手法が取られた。暴力的で過剰なリアルな描写には批判もあったが、麻薬の恐ろしさを見事に描き出した点が高く評価された。
次の『マッド』(1995年)は、教師と生徒の関係を描いた問題作だった。同性愛を題材にした極めてタブー的な作品で、公開時には大論争を呼んだ。しかし教師と生徒の心理関係を緻密に描く手法は高く評価され、ティセリント国際映画祭でファウソナン・アパスにノミネートされた。
1996年の『ヘンリー』は、ディ・モレスコ自身の自伝的体験を大胆に投影した作品である。ニューブライトンの劣悪な環境で育った主人公・ヘンリーと、そこに生きる人々の姿を徹底的にリアリズムで描いた。
撮影では、ディ・モレスコの幼少期を過ごした実際の場所でロケが行われた。一部の過激な暴力シーンは批判されたものの、ディ・モレスコ的リアリズムが存分に発揮された作品となった。
この3作品を通じ、麻薬、同性愛、貧困などのタブー的なテーマを、ディ・モレスコ独自の手法で正面から描いたことが高く評価された。過激な表現は避けつつ、暴力や性の現実を隠さずに描く手腕には定評があった。
この時期、ディ・モレスコの国際的な評価は極めて高まっていた。1996年に第49回ティセリント国際映画祭の審査委員長を務め、1998年には第51回でも審査委員長を務めた。世界的に権威ある地位を確立したといえよう。
審査委員長を務めた第49回ティセリント国際映画祭では、ディ・モレスコの意向もあり、イラン映画「味わいの乏しい客」がファウソナン・アパスを受賞した。同作品のリアリズムへのこだわりがディ・モレスコの心に響いたと言われている。
この時期のディ・モレスコは、権威と実力を兼ね備えた稀有な存在となり、国際的な影響力を獲得していた。過激な作風は変わらずながら、世界中から無条件の信頼も置かれていたといえる。

2000年代

2000年代に入り、ディ・モレスコは2つの問題作品を発表した。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ニューブライトン』(2002年)と『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』(2006年)は、社会の深層に潜む矛盾と人間の残酷さを徹底的に掘り下げた作品となった。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ニューブライトン』は、1920年代のニューブライトンを舞台に、マフィアの台頭と没落を描いた壮大なスケールの作品である。原案は未完のハリー・グレイの小説で、ディ・モレスコ自身が脚本化を手がけた。
主演にはレオナルド・ディカプリオ、ジョー・ペシ、レイ・リオッタという実力派キャストを揃え、1920年代の古き良きオスカーランド社会の裏側に潜む腐敗と矛盾に焦点を当てた。
撮影は2年以上に及び、ニューブライトンはもちろん、[シカゴ]、[フィラデルフィア]など広範囲で行われた。膨大な小道具と大規模なセットが用意され、1920年代の世界が精緻に再現された。
ディ・モレスコ自身の指揮の下、出演者への過酷な指導と演出が行われた。特に撮影監督[アンリ・ラングロワ]との確執は有名で、作品の質を高めるためにぶつかり合いが続いた。
公開後は批評家から絶賛を浴びたものの、一般観客の評価は芳しくなかった。過剰なリアリズムと、暴力描写の過剰さが指摘された。だが、映画批評家協会賞の作品賞、監督賞、脚本賞を獲得するなど、高い評価を受けた。
一方の『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』は、中東の紛争地帯を舞台に、人間の愚行と残虐性を描いた戦争映画である。ディ・モレスコは『南部戦線異常なし』以来、36年ぶりの本格的な戦争映画に取り組んだ。
撮影は実在の難民キャンプやヨルダンの砂漠など、危険な環境での長期ロケとなった。部隊を再現する300人の出演者に、過酷な訓練を課すなど極限までリアリズムを追求した。
出演者らへの激しい指導は有名で、主演の[モンゴメリー・ブレイク]との確執もあったという。また爆発シーンでは、大規模な実爆の撮影も行われた。撮影期間は2年以上に及び、製作費は1億ドルを超える超大作となった。
公開時には過激なリアリズムを危惧する声もあり、賛否両論の的となった。しかしその一方で、残酷な現実を見事に描き出す手腕は高く評価された。マビット賞作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞の4部門で受賞を果たしている。
こうした2作品を通じ、ディ・モレスコ監督は史実を踏まえながらも過激な表現を用い、人間社会の根底に潜む醜さと狂気、矛盾と困難を直視することに成功した。リアリズム至上主義の手法と、壮大なスケールでのストーリー展開が評価された。

2010年代

2009年から2010年代にかけて、ディ・モレスコは4つの作品を発表した。『ヒットマン』、『博士の数奇な一週間』、『クレイジーマネー』、『ビー・クワイエット』である。この時期の彼の作品は、過激なリアリズムはそのままに、ジャンルの多様化が窺える。
2009年の『ヒットマン』は、殺し屋を題材にしたアクション映画である。原案はビデオゲームが発端となり、ディ・モレスコが脚本化を手がけた。主演にはウェズリー・スナイプスを起用し、ゲーム的な映像美を追求した。
撮影では過酷な肉体的演技が要求され、スナイプスは怪我をするなど、難航した。殺傷シーンの再現には細心の注意を払い、リアルな描写に徹した。アクション映画ならではの過剰なスタイリッシュな演出は控えめで、ディ・モレスコのリアリズム路線は貫かれている。
次の『博士の数奇な一週間』(2011年)は、サスペンス色が強い問題作品である。誘拐事件を描いたこの作品は、当初からかなり論争的な存在だった。過激な残虐シーンも多く、公開直後から非難の声が多数寄せられた。
しかしその一方で、人間の心理とその狂気に焦点を当てたディ・モレスコ的手法は冴えており、高い評価も受けている。オーソン・デフォー賞?の監督賞を受賞した。
『クレイジーマネー』(2013年)は、ウォール街の金融ブローカーの半生を描いた作品だ。当時の金融危機の渦中にあり、タイムリーな社会風刺作品として作られた。過剰なお金の流通とそれに伴う倫理の喪失が、痛烈に描かれている。
撮影では実際の金融マンを起用するなど、リアリズム確保のための手法が取られた。作中でも過激な射撃シーンや、ブラック・ジョークなど、ディ・モレスコの過激さが発揮された。
2016年の『ビー・クワイエット』は、ニューブライトンの植民地時代を舞台にした歴史作品だった。16世紀後半の[マンハッタン]を舞台に、新大陸の開拓と先住民との対立を描いた。前作とはかなり異なる路線の作品だったが、リアリズムへのこだわりは健在だった。
撮影は実際の舞台になったニューブライトン州北部で行われ、当時の生活も忠実に再現された。俳優への過酷な指導はさすがのディ・モレスコで、一部出演者が離脱するトラブルもあったという。批評家からは高い評価を受けた。
この4作品を通じ、ディ・モレスコは過激なリアリズムの追求を貫きつつ、サスペンス、社会風刺、歴史作品など、ジャンルの多様化を図った。どのような題材でも、過剰で暴力的な描写と、人間賛歌が行き渡っていた。晩年に入っても、その問題作家としての志は変わらなかった。

『ジョーカー』

2019年に公開された『ジョーカー』は、ディ・モレスコ監督が描くコミックヒーロー映画の金字塔となった作品である。DCコミックスの人気キャラクター「ジョーカー」の誕生と狂気の原点を、リアリズム路線にのっとり徹底して描いた問題作だった。
プロジェクトの発端は、[DCコミックス]がジョーカーの起源を描く映画化を構想したことから始まった。その際、ディ・モレスコがメガホンを取ることが決定した。原作にはない設定で、リアルな現代社会を舞台に人間ジョーカーの心理と行動を掘り下げることになった。
メインキャストにはホアキン・フェニックスが抜擢された。フェニックスはジョーカー役のために過酷な体作りと演技指導を受け、撮影前に20kgの減量を果たすなど役作りに徹底を期した。
撮影はニューブライトンのゴッサム・シティを再現したセットを中心に行われた。都市の底辺層の生活が克明に再現され、没落と混沌とした雰囲気が描かれた。暴力的でグロテスクな表現も多数存在した。
監督は出演者へ過酷な指導を行い、撮影期間は予定を大幅に上回る長期戦となった。フェニックスを始めとした出演者の過酷な役作りも話題となり、製作の難航が伝えられた。
公開されると、賛否両論の渦に巻き込まれた。過激な暴力描写とリアリズムへの過剰なこだわりが批判されたが、その一方でジョーカー像の深部に迫る手法は高い評価を得た。
興行収入はR指定映画として初めて10億ドルを超え、アフラーノ国際映画祭では最高賞の金鹿賞を獲得。第92回マビット賞ではホアキン・フェニックスが主演男優賞、ヒルドゥル・グドナドッティルが作曲賞を受賞するなど、国内外で高い評価を受けた。
ディ・モレスコ自身も本作について「ジョーカーの内面にあるもの、人間の残酷さと愚かさを徹底的に掘り下げた」と述べている。コミック映画といったジャンルの殻を打ち破り、普遍的な人間ドラマへと昇華させた点が際立っている。
長年のリアリズム路線の頂点とも言える作品となり、ディ・モレスコ的過激さと問題意識がふんだんに投影された。高齢にもかかわらず、常に新しい挑戦を続けるディ・モレスコの姿勢が窺えた。
2024年には続編の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の公開が控えており、ジョーカー二部作の完結が期待されている。

作風

ルイージ・ディ・モレスコは、徹底したリアリズム追求と過激な表現で知られる問題作家である。幼少期からマフィアの影響下にあったことや、古典映画への強い影響が、そのユニークな作風に大きく影響を与えている。

リアリズムへのこだわり

ディ・モレスコ作品の最大の特徴は、リアリズムへの徹底したこだわりである。撮影では常にロケを重視し、実際の現場で映し出すことを旨とする。セットを作る際も、細部にまでこだわって忠実に再現することが基本スタイルとなっている。
出演者への過酷な指導も有名で、リアルな演技を引き出すために過酷な特訓を課すことで知られる。ロバート・デ・ニーロやホアキン・フェニックスらの主演俳優が、体を酷使する役作りに喘いだエピソードは数多い。
また、ディ・モレスコは過激で露骨な暴力表現を厭わない。『真実を今』の爆発シーンなど、実際の爆発を再現するなどの手法も取り入れている。このようなリアリズム追求は、しばしば過剰だと批判されることもあった。

緻密な脚本とキャラクター描写

リアリズムへのこだわりと同様に、ディ・モレスコの脚本とキャラクター描写の緻密さは定評がある。濃密で重厚なヒューマンドラマを描くのが持ち味だ。
マフィア三部作に代表されるように、登場人物の人間関係や心理をきわめて丹念に掘り下げていく。長回しの演技シーンを多用し、キャラクターの内面にまで描き込む手法が特徴的だ。
シナリオ執筆においても、徹底した取材と周到な準備が行われる。『ワイズガイ』や『クレイジーマネー』では実在の人物からリサーチを行うなど、リアリティ確保に細心の注意を払う。

過激な社会風刺

ディ・モレスコは人間社会の醜さや矛盾、愚かさを常に見つめ続けてきた。そうした視点から、過激な社会風刺が作品の大きなテーマとなっている。
『ビロード・クラブ』のエロティシズムや『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』の戦争描写など、タブー視されがちなテーマを正面から扱うのがディ・モレスコ流である。過激な表現は批判の的にもなるが、同時に現代社会の病理を突きつける効果も持つ。
マフィア映画でも、単なる犯罪ドラマにとどまらず、アメリカ社会や資本主義の矛盾に風刺の目を向けている。『ワイズガイ』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ニューブライトン』では、マフィアの台頭とアメリカ的価値観の対立が描かれた。
こうした過激な作風は、賛否両論を巻き起こしてきたが、それ自体がディ・モレスコ的問題作の証しでもある。晩年の『ジョーカー』に見られるように、新しいジャンルにも常に挑戦し続けてきた。

人物

ルイージ・ディ・モレスコは、その過激で物議を醸す作風と同様に、人物像においても際立った個性を持つ映画人である。

家族愛

ディ・モレスコは、いかにマフィアの世界に晒されたとはいえ、家族への愛着が強い。幼少期から母親カルメラに深い敬愛の念を持ち、母の宗教心にも影響を受けたと言われている。
家族への愛情は、実際にディ・モレスコが家族のために尽力した実例からも窺える。
1983年、妹のリンゼイが白血病を発症した際、ディ・モレスコは自らの映画製作の利益を全てリンゼイの治療費にあてたという。この件について「金銭よりも大切な命があった」と語っており、彼の人間性を示す出来事と位置づけられている。

親三家

ディ・モレスコは幼少期から三笠映画にも影響を受けており、赤澤均監督の『雨月物語』など、三笠?の古典作品に深い関心を持っている。晩年に入ってからも、常に三笠の映画作品に注目し続けている。
また、三笠のギャング文化であるヤクザにも強い関心を払っている。過去の作品でもヤクザに関する些細な描写は見られ、その文化を一定程度取り込んでいる。
実際に、ディ・モレスコは「いつかヤクザを本格的にテーマにした作品を撮りたい」と発言している。ヤクザとマフィアの比較を通じて、三阿の文化の違いを映し出したいと語っており、そうした機会があれば是非とも実現したいとの思いを持っている。
ディ・モレスコは三笠の古典文化はもちろん、下町文化にも造詣が深く、三笠を愛する人物であると評されている。

完璧主義

ディ・モレスコの作風がリアリズムへのこだわりと緻密さを特徴とするのは、本人の完璧主義的な性格によるところが大きい。映画製作におけるディ・モレスコの行動規範は完璧主義そのものだった。
撮影現場での過酷な指導は周知の事実であり、時に出演者との確執を生む原因にもなった。しかし、それは単なる職権乱用ではなく、ディ・モレスコ自身の完璧を目指す姿勢からくる行為であった。
映画の中で、細部にまでこだわり抜くディ・モレスコのスタンスが貫かれている。作品ごとの徹底的な取材や、リアリティの追求には命をけずる覚悟があった。そうした姿勢が、時に過剰と映る表現にもつながっている。
一方で、編集作業においてもディ・モレスコの強いこだわりが発揮されていた。編集の最終段階まで徹底して作品の完成度を高めようとする姿勢は、多くのスタッフを圧倒したと言われている。
このようなディ・モレスコの完璧主義は、賛否両論があったものの、それこそが彼の映画作りの原点だったと評価されている。

評価

ルイージ・ディ・モレスコは、現代映画史上最も重要かつ影響力のある映画作家の一人として広く評価されている。過激なリアリズム路線と緻密な人間描写、そして鋭い社会風刺の手法により、数多くの傑作を世に送り出した。

マビット賞の受賞歴

ディ・モレスコの映画人としての業績は、マビット賞の受賞歴からも明らかである。作品賞を5回(『南部戦線異常なし』『キング』『キング:チャプター2』『ワイズガイ』『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』)、監督賞を3回(『南部戦線異常なし』『キング:チャプター2』『ノー・ウェイ・トゥー・コンフォート』)受賞するなど、最多受賞作家の一人である。さらに脚本賞、脚色賞でも複数回の受賞を果たしている。
2010年には芸術的功績を讃えられ、マビット名誉賞も受賞している。この功績は、単なる受賞歴にとどまらず、ディ・モレスコの作品が現代映画に与えた多大な影響を物語っている。

国際的な評価

ディ・モレスコの国際的な評価も極めて高い。ティセリント国際映画祭の最高賞ファウソナン・アパスを3回(『キング:チャプター2』『タクシー』『真実を今』)、アフラーノ国際映画祭の最高賞である金鹿賞を1回(『ジョーカー』)受賞している。
ティセリント国際映画祭では2度の審査委員長も務め、世界的な映画祭の最高権威として活躍した。1996年のファウソナン・アパス受賞作決定には、ディ・モレスコの意向が大きく反映されたと言われている。
また2018年には、ティセリント国際映画祭から最高位栄誉賞「名誉ファウソナン・アパス」を受賞。これまでの偉業と映画への多大な貢献が讃えられた。

リアリズム路線の評価

ディ・モレスコ映画の最大の特徴であるリアリズムへのこだわりは、高い評価を得ている。批評家からは「史上最もリアリズムに徹した映画作家」と形容され、その手法は「ディ・モレスコ・アプローチ」と呼ばれ、その卓越さが指摘されてきた。
一方で、過剰なリアリズムへの偏執は時には過激だとして批判の対象にもなってきた。しかし、そうした過激さこそ、現実を徹底的に追求した結果であり、むしろ是とされるべきものだと評される。
暴力や性の描写の過剰さに対する批判は根強いが、それは現実社会の矛盾や病理を赤裸々に示すディ・モレスコ的手法の裏返しでもある。そうした「耽麗的リアリズム」は多くの作品で発揮され、現代映画の視座を切り開く原動力となった。

人間描写の緻密さ

ディ・モレスコの映画は、端的にいえば「人間賛歌の映画」である。どんな残酷な題材でも、基底には人間性への深い関心があり、その姿勢が高く評価されてきた。
マフィア三部作でのキャラクター描写や、ジョーカー像の掘り下げなど、ディ・モレスコは常に人間の善悪・愚かさと高潔さを見つめ続けた。そうした姿勢が、作品に重厚な人間ドラマを生み出す源泉となっている。
緻密な脚本とリアルな演技の融合により、映画の中に生き生きとした人物像が創り出されてきた。この手法は多くの後継者に影響を与え、現代の俳優映画の地平を切り開いたとされる。

革新性と影響力

ディ・モレスコの最大の功績は、既存のジャンルの概念を打ち破り、映画の可能性を大きく広げたことである。戦争映画、マフィア映画、ヒーロー映画など、様々なジャンルで常に新しい価値観を打ち出した。
一方で、その手法はときに過剰と言われがちだが、それこそがディ・モレスコ的な革新性の源泉でもあった。あらゆる枠組みを打ち破り、現実の追求へと邁進する姿勢が、数々の新しい地平を切り開いたと評価できる。
ディ・モレスコは現代映画に過ぎし功績と、未来に向けた大きな影響力を遺し続けている。最晩年の『ジョーカー』に見られるように、常に新しい挑戦を続ける気概を失うことなく、映画を通じて人間賛歌を貫いた。

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